黒澤尻町始めの事
一、黒澤尻本町始まり之事。慶長九年申辰八月御町に御割被成候。爰元も大分の大かや立にて御座候。右之大かや刈りへし御町に割申候由、村々より見ぬき町居爲到申由に御座候。年數改見申候に、慶長九年より寶永三年迄百壹年に罷成。年代記にて年改候申故少も相違無御座候。其御市日九日市三さい被下候へ共在郷新町に□市一切立不申やみ續けに罷成居申、萬治三年三月九日より右之市願上相立罷有候。萬治三年庚子三月九日より是の市年數改見申候へば、寶永參年迄四十八年に罷成候。御町役被付候事。御傳馬五疋、歩行夫十人は、延寶六年三月朔日より往來人馬鬼柳迄毎日花卷三□町にかけ合繼申候。又御傳馬五疋かさみ被付候は、貞亨貮年十月朔日勤申候。よれより御傳馬十疋歩行夫十人宛繼罷有申候。御町屋敷七十四軒元來より御座候。表口八間迄遠くねまで御町屋敷に御座候處、寛永十一年に御竿通申時、其時分の御代官衆の仰付候は御町屋敷には水呑居申者に御座候。水呑屋敷には餘り廣く候間此通へは御竿あて申様にと被仰付、其時より中ぐね立申候。然共遠くね中くねは御屋敷に付申候。御帳面に付申畑斗町分村へ引そへ申候。中ぐね立申より年數改見申所に、寶永三年迄七十貮年に罷成候。是も年代記には相改候へば少しも相違無御座候。本町新町の堺に兩方へほそ道御座候。本町の西東に裏路地御座候。
(五代先小澤兵部といひ南部公の家來にて岩崎合戰に打死す、小澤庄太記)
此道は本町割始め申時分、御代官衆被仰候は公儀御用にて往來ふさがり申事可有之候。御城下杯に候はば裏町と申て御座候へば、往來ふさがり申候ても能御座候。爰之は在郷町に候へは無其儀候間裏道たて候様にと被仰付、御町割始之時一所に右之裏道割申由に御座候。本町北南の土手に松木うへ申事。萬治己亥二年三月御町かざりに三代先の爺うへさせ申に付、段々拙者支配罷在候。街道の並松同前には無御座候『萬治二歳より享保六年辛丑歳まて年數六十三年なり』(小澤莊次郎後註)拙者より四代先の命名は五郎三郎と申、川岸端に隠居と申屋敷に居、黒澤尻村の肝煎段々に勤居申候。其時村小走仕候者は才藏と申由に御座候。當御町檢斷に引越様にと被仰付候。左様に仕候へは村肝煎可仕様成者無御座と申上候へば、村小走り仕候才藏と申者は村の様子知可申候間肝煎は才藏に勤めさせ其方は御町へ引越檢斷役相勤申様にと被仰付、四代先の爺此屋敷引越居申由に御座候。爾今拙者屋敷は表口十間に御座候。なみ屋敷は八間宛に御座候。それより檢斷竝に屋敷共に不更拙者迄四代首尾能相勤罷有候。三代先之爺年貮つに成申時爰之屋敷へ參候由に御座候。才藏と申者は只今の七藏の三代先の爺に御在候。拙者親助七は鬼柳村より此家へ入婿に御座候父方四代先の爺及川助右衛門と申鬼柳殿御家來之由に承り候。母方の爺高橋五郎三郎と申由に承り候。
[3回]
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