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杜陵印刷発行。
袋には「34.5.1」の印があります。
絵を描いた吉川保正(きっかわやすまさ)さんは、明治26年下閉伊郡重茂村(現:宮古市)に生まれ、盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)在学中に岩手洋画の先駆者海野三岳の教えを受け、東京美術学校(現:東京藝術大学)彫刻科在学中の大正10年には、第3回帝国美術院展覧会に「小女立象」が入選している、岩手を代表する芸術家です。
昭和2年に中華民国雲南省立美術専門学校教授、昭和4年に岩手県商工館(現:岩手県工業技術センター)金工部長となり、戦後は岩手県重要美術品等調査委員、岩手県文化財専門委員、盛岡市文化財調査員などを歴任、岩手の美の発掘者として活躍した方なそうです。
袋の裏には、鬼剣舞について、次のように書かれています。
鬼剣舞は岩手県の代表的な郷土芸能であります。「鹿踊り」や「さんさ踊り」「金山おどり」などそれぞれ庶民に親しまれつつ今日に及んでいる中で、鬼剣舞は仏教の香りを多分に持ちつつも、踊りはあくまでも勇壮で、近代バレエにも生かされております。
以下、葉書と表面に書かれている解説を示します。
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『康平年間、阿倍頼時の子、黒沢尻正任が黒沢尻柵に拠っていた当時、戦勝の凱旋踊りとして、大いに将兵の指揮を鼓舞しました。このことは平泉藤原三代の古文献ものこっております。』
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『鬼剣舞は岩手県北上市付近数ヵ村にのこる勇壮な踊りで、疫病・剣難・風雨順時・五穀豊穣の祈願とされております。郷土の詩人宮沢賢治もこれらの踊りに傾倒し「原体剣舞連」という有名な詩をのこしました。』
太刀は稲妻萱穂のさやぎ
獅子の星座に散る火の雨の
消えてあとない天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
宮沢賢治「原体剣舞連」より
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『純然たる仏道芸能であることはいうまでもありません。舞踊の内容は最初、入込の型から「刀けんばい」「扇合せ」と変わり、更に三人加護と三変します。白面の鬼神の出によって、今までの「剣ばい」拍子はガラリと神楽拍子となり、八人で踊ります。』
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『「鬼剣舞」(おにけんばい)は天武天皇の大宝年間、山城の国大峰山で、役の行者が創めたもの、或は羽黒山峰仲大僧都法印が、大日如来の化身と称する一法印から悪魔退散の剣舞(けんばい)として伝えられたといわれています。』
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