河野通信
2015.09.25 |Category …北上で、…
河野通信 公
-----岩手県文化財指定史跡「ヒジリ塚」に関連して-----
河野正敏 述
一、河野家は伊予風早郡河野郷(現在の愛媛県北条市)を発祥の地とし、代々瀬戸内海の海上権を掌握していた水軍の総師で、上代以来伊予第一の豪族であった。そして一族の中からは蒙古襲来(文永、弘安の役)のとき敵将を捕虜とするという戦功を樹て日本歴史にその名をとどめた通有を初め数多くの武勇の士を輩出した誉の高い名門である。
河野家の先祖については系図や文書が多く伝わっているものの、いずれも初めの方が証拠不十分のため、いくつかの説があるが、「群書類従」合戦部二八「豫章記」河野系図編によれば次の通りである。
皇霊天皇―伊予皇子―小千御子(小千命、小致命とも書く。後に越智と書く)―天狭貫―天狭介―粟鹿―三並―熊武―伊但馬―喜多守―高繩―高箕―勝海―久米丸―百里―百男―益躬―武勇―玉男―諸飽―万躬―守興―王興―玉純 ―益男―真勝―洋躬―興村―興利―興方―好方―好 峯―安国―安躬―元興―元家―家時―為世
他に饒速日命(にぎはやひのみこと)の末裔であるという説、神武天皇の皇子八井耳命の後なる伊予国造の後裔という説などもある。
河野一族は信仰心篤く、事あるごとに伊予大三島に鎮座の河野家祖神の大山祗神(或は大山祗命)を祀る三島大明神(三島宮、大山祗神社)に参詣祈願、戦に臨んでは三島大明神の神紋であり、同時に河野家の家紋で ある角折敷に縮み三文字を、墨書した軍旗をかかげて敵に挑み、凱旋すればまた神前に集まり報告するのであった。
因みに三島とは本州、四国、九州を指し、三島大明神はこの三州を鎮守する日本総鎮守神として、河野水軍 の伝統の中にはその神威の下に日本を統治しようという大きな理想が秘められていたのである。現在全国にいくつかある「三島」という地名や「三島神社」は、河野水軍のかっての駐留地、或は河野一族が大山祗神を鎮祭したことに端を発するのではないかと考えられる。とくに筆者の曾祖父までが、神官を勤めており、源頼朝が挙兵のとき参詣祈念したといわれる伊豆一の宮、旧官幣大社三島神社(静岡県三島市)は、「東関記行」「 源平盛衰記」「二十一社記」「日本書記纂疏」等の古文献や近くは「静岡県史」に見ると、伊予三島大明神を奉斎する氏族(即ち河野一族)が、古代太平洋の黒潮に乗って海上遙かに伊豆三宅島に移住し、次いで伊豆白浜に遷祀され(現、伊古奈比咩命神社)更に現在地に遷座したものと認められる。
ところで、河野家の先祖は前掲の為世以降は正確で、為時-時高-為綱-親孝と続くのであるが、平安朝中 期に伊予高繩(現在の愛媛県北条市)城主であった親孝には男子がなかった。そこで、当時伊予守として在国中であった源頼義の末子親経を養子として迎えた。頼義はそれ以前に陸奥守として鎮守府将軍を兼ね、子息八幡太郎義家を伴って奥州に駐留しており、康平五年(一〇六二年)安倍貞任一族を黒沢尻柵(現在の岩手県北上市)厨川(現在の盛岡市)に討って乱を鎮定した功によって伊予守に任ぜられたのであった。親経は義家の末弟に当る。恐らく親経も父や兄とともに奥州に来たであろう。河野家と源氏そして現在の岩手県と縁ができたのはこのときからである。のちに源頼朝が平家追討の挙を起したとき、全部が平家の与党であった西日本に おいて、河野ただ一家が最初から源氏に組して孤忠をぬきんでたのはこういう血縁によるものである。親経の 子が親清、その子が通清であるが、通清以後河野家の歴史は急展開する。
余談になるが、親清の妻は子宝に恵まれなかったので、三島大明神に参籠して祈願した結果漸く男子が生れ た。そこで神様と密通して生れた子というので通清と名付け、以後河野家ではその名に「通」の字を用うるよ うになったと伝えられる。もっとも一説では三島大明神の本地仏が大通智勝仏であるから、その「通」の字をとったのだという。通清は姓氏家系大辞書によると、河野家第四五代に当る。通清の長男が通信である。
二、治承四年(一一八〇年)八月一七日、長らく雌伏していた源頼朝は、伊豆一の宮三島神社の大祭の夜を期して山木判官兼隆の館を急襲して、平家打倒の兵を挙げたが、これに呼応して通清はその子通信、通教らとともにいち早く高繩山域に白い長旗をひるがえして源氏の名乗りを挙げ、伊予における平家の一門を掃蕩した。そして、引続いて通信は兵を率いて九州に渡り、源氏の味方となった肥後の菊地九郎隆直、豊後の諸方惟能を応援して力戦奮闘したのである。
ところが、通信の留守を知った平家の一党、阿波の住人田口氏は大軍を率いて陸から通清に攻撃を開始し、続いて備後奴可入道西寂は鞆の浦から数百隻の軍船をもって海からこれに加勢し、風早の地は風雲急を告げた。これに対し、通清は輩下の豪族を非常呼集して防戦し、各所で敵を手こずらせたが、残念ながら通信の九州遠征によって兵力を割いていたため数の力には抗し切れず、翌治承五年(一一八一年)正月一五日高繩城は陥落し、通清はその子通孝、通員らとともに切腹し果てたのである。
はるか九州の地にあって父の最後を聞いた通信は兵をまとめて帰途に就き、北条の浦に到着するや焼け落ちた高繩山を望みながら部下とともに再起を期して軍を解散した。そして、単身関東に下り、縁故にあたる源頼朝や木曾義仲にも会い、三年後には母の里方である安芸国豊田郡沼田東村の沼田氏に身を寄せ、河野家再興の機会を窺っていた。たまたま正月下旬の某日、父通清の仇敵西寂は伊予の源氏方の武家を攻めて野間郡波方村に凱施し戦勝の大酒盛を催した。通信は好機逸すべからずと、部下と漁師に変装して酒宴に入り、大鯛を献上すると見せて西寂に近づき、躍りかかって捕え北条の浦に引揚げた。風早の住民たちは歓呼の声をあげて彼を迎えた。通信は西寂を高繩山頂に引き連れて来て今は亡き父通清の墓を三返廻らせ、その場で彼をはりつけにした。寿永三年(一一八四年)二月のことである。
このとき大胆不敵な西寂は、通清の墓を廻って死刑になる前に、事もあろうに墓に小使をした。これを見た通信は激恐したが「同時に人間は死後形に残すことは如何なる辱かしめを受けるかわからない。生きては事業を残し、死しては速かに土に帰る事こそ人間の本領である」と考えた。爾来河野家では墓をつくらなかったの で、当時の一族の墓で現在残っているものはない。このことは後に通信の墓が絶えて久しく不明であった原因 でもある。
父の仇を報じた通信は名声大いにあがり、近郊近在の豪族たちはきそって通信の輩下に入った。ときあだかも 源平の合戦は、たけなわとなり、源義経に追われた平家は京を捨てて一の谷、屋島に陣取った。既に通信 は平家の意を体した阿波の田口と一戦を交えてこれを破ったが、続いて軍船三〇〇と兵三、〇〇〇余騎を従え て義経に加勢し平家を攻撃した。再び大敗を喫した平家は壇の浦に逃げ、最後の決戦が持たれることとなった。ここまでは主として源氏の得意とする地上戦であったが、今度は海戦であり、それに九州の菊地その他の軍 も平家に味方しているので、その勢力は侮り難いものがあった。通信は一旦根拠地に帰って軍備を整え、河野と同じ越智の出である村上氏を初め三島の大祝、忽那島の忽那氏など水軍の各大将を召集して作戦会議を開き三〇〇隻の軍船にそれぞれ源氏の長い白旗を授与してこれを鹿島山頂から観閲し、勇躍壇の浦に出征した。高繩城に父通清かその部下だちと玉砕して実に四年後に当る。そして当時の敵と再び一戦を交えたわけである。 結果は周知の通り、機略に富む義経と通信を総師とする河野水軍の奮戦によって平家は完敗し栄華を極めた一 族は壊滅したのである。時に寿永四年(一一八五年)三月二四日通信三〇才の春であった。
通信は壇の浦から凱旋して一旦高縄城の妻子の許に帰った。彼の妻は新居大夫玉氏の女であり、既に通俊、 通政、通広の三子があった。暫時休息した通信は、手兵を従えて船に乗り鎌倉に向い頼朝に伺候した。頼朝の喜び方はたいへんなもので、平家を亡ぼしたのは、河野水軍の力であると激賞し、通信を伊予国道後七郡の守護職に任命した。そのうちに遠征中の武将が続々と帰還したので、日を選んで由井ヶ浜で戦勝祝賀の一大酒宴 が催されたのであるが、そのとき勲功のあった順に席次が決められた。頼朝は小折敷に先づ一と書いて自分の前に置き、二と書いて義父北条時政の前に置いた。如何に頼朝が通信の戦功を重視したか判る。
ここで河野家の家紋について考察すると、「豫章記」には小千三並が神功皇后の命で夷国(新羅)征伐に出発する際、一方の大将として三番目に出航したので、船に三の字を書いた旗を立てたが、異国にもこれに似た紋があったので、三並の船は折敷を角違いた挿み船の先に立てた。ところが、その影が海水に映って三文字が 縮んで見えたので、縮三文字を船印としていたが今回頼朝による名誉で角折敷に正三文字を入れるようになったと書いてある。もっとも、神功皇后が実在の人物かどうかは歴史上疑わしいので、河野家の家絞は通信のときに定まったと考えてよかろう。なお、この家紋は日本の代表的家紋の一つに教えられている。(荻野三七著 「日本の家紋」)。
通信は以上のように頼朝からその力を高く買われ信任を得て、彼の妻政子の妹、したがって時政の娘である谷(やつ)を賜わり鎌倉において妻とした。通信と谷との間に生れた子が通久、通宗で通久の子が通継、その子即ち通信の曾孫が通有である。通信はこのほか信州の二階堂信濃民部入道の女をも妻として一子通末をもうけている。また、通信の伊予に残した三人の子息のうち三男通広には五人の子があったが、その三男智真房が時宗の開祖として有名な後の一遍上人である。
三、さて、通信はその後鎌倉に居住したが、やがて頼朝と義経の仲が悪くなって源氏の悲劇が始まる。文治五年(一一八九年)、義経は奥州平泉で藤原衡亡き後泰衡の裏切りによって三一才の生涯を閉じたが、頼朝は更に泰衡追討の兵を差し向け、いわゆる奥州征伐を敢行した。通信はこれにも参加したが、戦意を衷失した藤原勢は首都平泉に自ら火を放って敗走し、通信は頼朝とともにこれを追い、北は厨川まで遠征した。そして、清衡以来四代、奥州にその富強を誇り京都に匹敵する文化を築いた藤原王国はあっけなく崩壊し去ったのである。通信はこのときの戦功により三迫(宮城県)久米(愛媛県)を知行した。
正治元年(一一九九年)正月、頼信は五三才で没し、その跡は頼家が継いだが、病身の上建仁三年(一二〇三年)北条氏を滅そうとして返って伊豆修禅寺に幽閉され、弟実朝が将軍職に就いた。翌元久元年(一二〇四年)七月頼家は修禅寺で殺された。通信はこの年まで鎌倉に居たが、相次ぐ源氏の身内の争いに厭気がさしたのか、故郷伊予に帰った。鎌倉幕府は通信の永年に亘る労苦功績に報いるため建保五年(一二一七年)彼を伊予国守護職(現在でいえば愛媛県知事)に任じた。その後源氏の相剋はなお去らず、承久元年(一二一九年) 実朝は鶴ヶ岡八幡宮に参詣の帰途、頼家の遺児公暁に暗殺され、公暁も程なく追手に討ち取られ、ついに頼朝直系の子孫は断絶してしまった。そして、頼朝の未亡人政子が幕政をみることとなったが、やがて北条氏に実権が移り、その専横は年を経るにしたがって甚しくなった。ここで京都朝廷は倒幕を計画し、承久三年(一二二一年)五月、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下した。それで幕府は直ちに関東の武士を動員して抗戦す ることを決めた。史上有名な承久の乱である。
乱が起るや通信は源氏以来永年に亘り姻戚関係にあり、恩顧を受けた鎌倉幕府に組すべきか、またまた皇霊天皇の後裔として、連綿たる皇統を継ぐ皇室につくべきか大いに悩んだ。前述のように通信の鎌倉方の妻は頼朝の未亡人で当時尼将軍といられた政子の妹谷であり、谷との間に生れた通信の五男通久は政子の甥にあたるので当然のことながら北条氏の方についた。他方、通信の伊予方の次男通政は当時既に大内裏に召されて西面の武士として備中守に任ぜられ、皇孫の姫宮を妻に迎えていたばかりでなくその子童長丸、弥長丸は幼童の身でありながら昇殿を許され「童昇殿」といわれ巷間で羨望されていた。この二人が後の河野又太郎政氏と弥太郎通行である。したがって通政はこれまた当然のことながら朝廷方に加勢したのであった。
この頃通信はたまたま鎌倉に来ていたが、このように同じわが子が敵味方に分れて戦うという複雑な事情もあり去就に迷っていたのである。ところが妻谷が賢妻ぶりを発揮して、自分の里方である北条氏へ忠誠を尽す ことが当然である。そして他の武将よりも勲功をたてて帰って貰わねば肩身が狭いと意見したためすっかり立腹し、こういう天下の大事に女がロをさしはさむとは不遜であると、そのまま鎌倉を立って伊予に帰ってしま った。当時関西以西は朝廷の勢力圏であり、通信に対しても上皇から宣旨が届いたことであろう。そこで通信 は自分の意志を決定するため三島明神に参寵したところ、幕府方につけという神託であった。しかし通信は妻谷に対する反撥もあって、このときばかりは三島大明神の神託を無視して朝廷方に参加することを決意し討幕 の兵を挙げたのである。
ところが、上皇の宣旨の効果を過信した朝廷方の無策と読みの浅さに比し、幕府方は有名な尼将軍政子の声涙ともにくだる演説にも見られるような危機感で一致団結したことと、京都に対して先制攻撃をかけるという作戦が奏効して、戦乱は僅か1ヵ月で幕府方の大勝利で終り、朝廷方は惨敗した。
通信は京都から遁れて通俊、通政とともに高繩城に立寵り反撃を図ったが、北条時房は強兵数千を以て激 しく攻撃したため死傷者統出し城は危殆に瀕した。通信は城を捨てて残った若干の兵とともに海浜まで撒退し戦ったが、流矢が左股にあたり歩行の自由を失ない遂に宇野太郎頼経に捕えられてしまった。その間通俊は戦死した。
かくして承久の乱は幕府の一方的な勝利で終りを告げたが、乱後の処置はまことにきびしく、討幕の首謀者であった後鳥羽上皇と順徳上皇はそれぞれ日本海の隠岐、佐渡に、土御門上皇は自らすすんで土佐に配流され討幕計画に参加した貴族、武士の大半は斬罪、流罪に処せられた。通信も伊予守護職を初め領所五三ヵ所ならびに公田六千余町、一族一四九人の所領悉くを没収され死罪に処せられることになった。しかし、ここで幕府方に従軍して勲功のあった通信の子通久の助命嘆願があり、且つまた通信がかって鎌倉幕府に尽した功績を参酌され、死一等を減じられて奥州(今の北上市稲瀬町国見山極楽寺、当時岩手県地方の寺の格式は最高であった)に配流されたのである。通信と行動をともにした次男通政は信州葉広に流されて斬られ、通末は信州伴野庄に流され、更に通政の子政氏は常陸に、通行は父と同じ信州葉広に流され、朝廷方についた一族は悉く厳戒に処せられた。
四、奥州に流された通信はその後世の無常をはかなみ出家して観光と号(今の下門岡安楽に住していた)したが 二年後の貞応二年(ー二二三年)五月一九日、六八才で逝去した。(今の水越ひじり塚がその墓である)。 伊予に生れ、長じては千軍万馬の間を馳駆し、或は水軍の総師として幾多の合戦に勲功を樹て、先祖の失なった領地を回復したばかりでなく、伊予一国の守護職として栄誉を誇ったものの、晩年は悲運に見舞われた通信の一生は文字通り波瀾に富んだものであり、まことに劇的な生涯と言えよう。なお、通信は朝廷のため戦った功を認められ、大正五年従五位を贈られている。
五、(通信を中心とした系図)
この通信の墓へ孫の一遍上人が弘安三年(一二八〇)にお詣りしている。それからこの墓を現稲瀬町の人たちは一遍上人の通称「ひじり」をとって、「ひじり塚」というようになった。代々の遊行上人ひじりたちもお詣りしていたのであったが戦国時代以降それもうすれ忘れられるようになった。それがこのたび再び司東真雄氏の努力で発見され、岩手県の史蹟として指定されるようになった。鎌倉時代の豪族の墓として、頼朝の墓よりも立派に今日にのこっていたことは誠にめずらしく有難いきわみである。
-親清-通清-+-通信---+-通俊-通秀
+-通孝 +-通政-+-政氏
+-通員 | +-通行
+-通助 +-道広-+-通朝
+-通経 | +-伊予房
+-宗賢 | +-智真房(一遍上人)
| +-伊豆房(仙河上人)
| +-通定(聖戒上人)
+-通末
+-通久-+-通継-+-通有
| | +-通氏
| | +-通泰
| | +-通成
| +-通時
+-通宗
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昭和44年5月19日(河野通信逝去の日)
著者 河野正敏(商工中金盛岡支店長(当時))
印刷所 モノグラム社
※コメントいただきました。
ありがとうございます。
こういうものは、地元の宝であり、公開しながら伝えていくべきではないかと、私は思っています。
※コメントいただきました(2023.2.13)
情報ありがとうございます。
河野通信公没後800年御遠忌とのこと。
合掌。
※子孫の方からコメントいただきました(2023.10.16)
子孫の記述を他の子孫が読み先祖を知る。
連綿たる命によって今がある、うらやましいです。