黒澤尻柵も満開
2009.04.30 |Category …北上で、…
看板には以下のように書かれていました。
陸奥の豪族安倍氏は平安時代後期、北上川沿いや重要な地に柵を造営し、柵主には一族をあて地域支配の拠点とした。また、極楽寺を中心としたその周辺の寺院にも深くかかわっていたことが考えられる。
この周辺に「黒澤尻柵」が設けられ、頼良の五男正任を配した。この地域は「阿部舘」と言い伝えられている。
永承六年(1051)前九年の合戦が起こったのが安倍氏の勢力が強く陸奥守兼鎮守府将軍頼義は出羽の豪族清原氏に援軍を請うた。
康平五年秋(1062)、安倍軍は源氏・清原軍と厨川柵で最後の決戦を行う。
この合戦の途中、黒澤尻柵が落ちだか、正任は出羽に逃れ、後に投降し伊予に配流されたと言われている。
(江戸後期の民族学者菅江真澄は天明5年9月にこの地を訪れている。)