一、九月十二日筒作右衛門様より私に御用有之候間罷上候様にと御差紙に而被仰遺、花卷御屋敷へ罷上申候る作右衛門被候は其方爲呼出候儀、孫助久右衛門屋敷披露の訴状私等方へ相出候間此一儀相濟不申中は、久右衛門□□家屋敷手入、ふんじつ仕間敷よし、久右衛門へ此旨可申渡と被仰付罷歸其晩久右衛門拙者方へ爲呼寄候而申渡候。其座に町肝煎源吉居合合承候。然所に九月廿六日に拙者方へも不承久右衛門家相さけ申候に付、拙者驚入同晩久右衛門並組頭善兵衛爲呼寄拙者久右衛門に申候は、其方自分に何と仕家さけ候や、先達手入間敷段申渡罷候所不届なる仕方と叱り申候得ば、久右衛門申候は、元來古家項日うぢつづき長雨にて家つぶれ申故貴殿へも訴不申家取さげ申候由挨拶仕候。拙者申候は此段大切之儀に有之候間、御代官様へ訴可申上と久右衛門にも善兵衛にも申渡相返申候。其後大切之儀有之候間、町内老共にも相談仕御披露可申上と存候而段々老共にも承合、同廿九日御披露に可罷上と存候所に、上鬼柳村孫助方より久右衛門家さげ候儀作右衛門様へ同廿八日に御披露仕拙者方は、後に罷成申候。同廿八日之日暮時分作右衛門様より小卷萬平被遺久右衛門家に組合共、尤勘四郎召連罷上候様にと御指紙に而被仰付、其晩萬平と一所に罷上申候。其晩は御訴申上候得共埒不申候。同廿九日めし過に作右衛門様御屋敷へ右之者共召連罷上申候。作右衛門様被仰候は久右衛門事先達而家屋敷へ手入仕間敷段申渡置候處に久右衛門さけ候事不届成者、組合へ御預け被成、勘四郎儀も久右衛門無調法之段可申聞と爲呼寄申候旨被仰罷歸候。
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