横黒線案内 その2
2012.07.27 |Category …北上で、…
黑澤尻町は和賀郡の中央、宏濶な肥沃に位し、北上川其東郊を流れて水運夙に發展した都邑で、藩制度時代には藩の御倉米輸出港として數百艘の船舶常に輻輳し、河口石卷を介して江戸、北海道等各地への商權を握り繁盛を藩内に誇つた所で、廢藩後水利の途絶え鐵道拓けるに及び殷賑に殺がれたが、猶ほ郡の首邑として、東方釜石街道沿路町村南方江刺郡福岡方面への要路として、物資の集散、商取引活況を呈しつゝあり今横黑線全通して秋田懸に伸展の途拓け相互産業の振興に一大刺戟を與ふるに當り、當地は實に其門戸として仲介者として異常の緊張を示し往年の殷盛期に復さんと準備してゐる。町は現在戸數一千百余、人口八千を擁し郡役所を始め多數の官衙、會社、銀行を有し名所として諏訪神社、染黑寺、立花山等立寄るべき所多い。
諏訪神社は諏訪町の東端にある鄕社で驛から徒歩で十分を要する。
緣起に關する傳説に依れば延曆十年田村將軍が蝦夷平定に下向した際當地に健御名方命を本尊とする一社を建立したのが本社でもと本宮にあつたのを享保年間再建して現在の所に遷したものであると謂ふ。例祭は毎年舊七月二十七、八兩日で神輿の渡御がある。驛から東方へ六丁樹木鬱然たる染黑寺は慈覺大師の開基による曹洞宗の名刹で、往時天台宗に屬し、禪黑寺と稱する祈願所であつたのを源義家が阿部賴時討伐に當り其子黑澤尻五郎正任當地に死守して防いだ折り、寺は兵燹に禍されたが義家は抗戰に際して守本尊觀世音像を奉つたと傳へられてゐる。
後永正元年に至り正覺寺五世の僧性岸文省と云ふ人によつて寺號を改め和賀山と號するに至つたもので現代で二十四代檀家七百余を有している。