黒沢尻河港跡
2015.04.29 |Category …北上で、…
そうだよな~、港町だったんだよなぁ。
そういう売り出し方とあるよな。
ま、簡単じゃないから誰もやってないんだろうけど。
北上川舟運
北上川は古来、南部藩と伊達藩の領域を南北に通ずる交通の大動脈として利用されてきた。河口の石巻から盛岡までわずか100mという高低差で、船の航行が容易であったからである。特に、石巻から黒沢尻の間は、概して水深もあり比較的大きな船も航行できた。
ひらた船は普通四艘一組で船団を組んで出航した。水位が高い時は、350俵をそのまま積めるが、水位が低い時は一部の俵を艀下(小繰舟を代用)に積み分けて途中まで随伴した。
黒沢尻から石巻までは、順調にいけば下り三日、上り十日位とされていた。しかし、水位の状態や風雨、川の凍結など、気候の変化によってしばしば難儀を強いられた。特に黒沢尻から一関の間に浅瀬・暗礁が多く、また、狐禅寺峡谷部は川幅が狭く、流量が豊富なので渦巻きが多く、暗礁も多い。その下流から石巻までは、上流から流された土砂の堆積で河道の変化が著しく、冬の西風が船頭達を悩ませるところであった。
一方、ひらた船が川をさかのぼる時は、風があれば帆を用いるが風がない時は棹で漕いで上った。流れが急で棹が使えなくなると、水主(水夫)が岸に上がって岸から綱で引いた。川岸には細い舟引き道がつくられていた。引き綱を帆柱の上に結びつけ、この綱にひこ綱をつなぎ肩にかけて引くのである。船には船頭一人だけ残り、棹で船が岸に寄りすぎないようにした。水主だけでは船が動かない時は、付近の野良で働いている百姓たちを雇って、船を引いたという。
黒沢尻河港跡
江戸時代の初め、南部領では米を江戸に安い費用で一度に大量輸送できる北上川舟運を開発した。領内一の穀倉地帯を控えている黒沢尻には盛岡~石巻間最大の河港を設け、年貢米を納める御蔵・造船所・御蔵奉行・御ひらた奉行・御番所などの施設・機関を置いた。
開港は正保年間(1644~1648)ごろと考えられている。
黒沢尻から上流は川が浅いため百俵積みの小繰舟、下流は三百五十俵積みのひらた舟が就航し、上流からの米はすべて、いったん黒沢尻河港の御蔵に集められ、ひらた舟に積替えて石巻へ下した。そこから江戸へは千石船で運ばれた。それは多いときは年間十万俵にも達した。
このような藩の回米輸送のほか、商人たちによる交易が盛んにおこなわれ、大豆・木材・銅・紅花・紫根・薬草などの地元産物が移出され、塩・砂糖・衣類・日用雑貨などが移入された。
河港は、帆をかけたひらた舟や小繰舟がひしめきあい、舟運に携わるたくさんの船頭・人夫・商人・役人たちで賑おう港町として発展した。明治二十三年東北本線の開通によって、舟運は鉄道輸送に座を譲った。
さて、このひらた船をモチーフにした、ずばり「ひらた船」というお菓子もあり。
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