横手町は戸村氏の朝倉城下で三方に宏大な豊沃連なり本荘街道、沼館街道、陸羽街道角間川街道等の中樞に位して商機發溂、街衢亦整然たる縣内第二の都邑で現在人口一萬五千を超え各種の會社、金融機關がが完備してゐる。
當地を起點とし日本海岸本庄町に通ずる横荘鐡道線は現在、淺舞、沼館、館合を經て羽後大森迄開通し、本荘より起る鮎川、前郷と握手した暁には今回全通した横黑線との連繋となり、横手町を中心として地方産業、經濟關係の一大進展を齎らすこと勿論で、當地の雄躍振り亦期待すべきものがある。現在主要産物として擧ぐべきものは米(年産額一五、一六四噸)清酒(同一、五七五噸)木材(同二、一四二噸)綿織物(同一、四七五噸)等
驛附近における旅館は平源支店、小阪支店、平利支店、伊藤旅館、佐々木旅館、小川旅館等その主なるものである。
當地で觀るべき所は東岡の横手城址である。城は阿櫻城又は朝倉城と稱へ秋田藩三城の一として繁榮を誇つた所で中古横手佐渡守の居城であつたのを天文年中湯澤の城主小野寺中宮介輝道に亡され、輝道移り住むに及んで其孫光道、徳川家に背いたので父子兄弟五人石見國に流された。慶長七年佐竹家遷封となるに及んで伊達守重を城代として據らしめ、須田盛秀、戸村十太夫義連等世々居城としたもので、維新の際苦鬪其効なく沼田瀬兵衛外二十餘名憤死し、城樓悉く燒失したのである。
後年城址を拓いて公園となし城山公園と名づけ、山上に秋田神社を祀り一帶の丘岡に數千株の櫻樹を植えて町民の行遊地となつた。
隣驛後三年から東へ三里にして後三年の役に有名な金澤の柵址がある。
寛治元年陸奥の俘民清原武衡、家衡等亂を起した際、陸奥守源義家自ら東海、東山の兵數萬を率て攻めること久しかつたが武衡等此城に據つてこもって死鬪する模樣がなかつたので城の南方に當る山上より城中の状況を瞰、用水に乏しいことを知つて金洗川の水源を遮斷し持久の暴畧に出でた。
水利を失つた城兵は次第に食糧も盡き果て同五年十二月十四日夜に至り武衡等柵を燒き拂つて逃れ、家衡は變装して遁れた、武衡は城南十丁餘の蛭藻沼に匿れ草を以て身邊を覆ふたが義家の兵詮索して之を殺し、家衡亦義家の從士に刺されたのである。
城址には金澤八幡宮がある、義家が武衡一族追討の砌、羽州鎮護の爲めめ山城の石清水八幡を勸請して堂宇を建立したもので慶長九年佐竹氏に於て再建した、什物には義家の持佛三藏筆の般若經、運慶作の猿田彦面、古劒、古鏡、古鐸等存藏されてある。
(終)
[0回]
PR