祭ずし誕生55周年記念 桃太郎の祭ずし プレミアム 1380円
岡山市の株式会社三好野本店 製造
55周年記念だから、今年限りかな、と購入。
プレミアムじゃ無い、レギュラーの祭ずしは、1000円で、
こちら。
ももの形の弁当に合わせて掛け紙は6角形になってますが、つぶせば四角。
さすが折り紙の国。
大げさすぎるな。
ちなみにレギュラーのは、6角ではなく4角。
この裏に祭ずしの説明がありました。
岡山名物 祭ずし
江戸時代、岡山は備前の国と呼ばれていました。
名君の誉れが高かった藩主の池田光政は、自ら率先して倹約を心掛け、後の藩主たちも贅沢を戒める「お触れ」をいろいろとお出しになりました。
しかし、江戸時代半ばにもなると、藩の財政や農民の暮らしぶりとは裏腹に、町人たちの食生活は、だんだん豪華になり贅を極め、目に余るようになりました。
そこで、時の藩主池田斉政は、寛政八年(一七九六)「常々の食事は、一汁一菜」とのお触れを出し、贅沢せぬよう厳しく命じました。しかし、備前の国は、お祭りの時でも、「備前の喰い祭礼」といって、家々で工夫して作ったちらしずしを振る舞うのがお祭り一番の楽しみという土地柄。最初のうち、おとなしくていた商人も「これでも一菜には違いあるまい」と、お祭りの鮨は、年々豪華になる一方。しまいには一升のちらしずしを拵えるのに一両もの大金を惜しげもなく掛ける豪商も出て「鮨一升、金一両」とまで言われるようになったそうです。
地元では、ちらしずしのことを「岡山寿司」とか「ばら寿司」と呼んでいますが、私共では、このちらしずしがお祭りとは切っでも切れないものであると云うことから「祭ずし」と命名させていただき、今日まで広く全国の皆様にご賞味いただいております。
岡山の駅弁 事始
蒸気船が全盛だった明治中頃、岡山の玄関口は、旭川に架かる京橋という橋の付近でした。
料亭で旅館だった「三好野」もこの辺りにありました。
船着場から「三好野」までの間には、何軒もの家が軒を並べていて、「三好野横町」と呼ばれていたそうです。
この「三好野」に、鉄道敷設のため客として滞在していたのが、福沢諭吉の甥で、後に山陽鉄道の初代社長になった中上川彦次郎でした。
「これからは、ステン所(Station+支店所)の時代だ。異国では、陸蒸気の来たる場所はどこも繁栄しておるぞ」との彦次郎の強い勧めで、「三好野」の女将の加之は岡山駅の用地取得に協力し、駅の開業と同時に構内で「支度所」という飲食を伴う待合所を開店しました。
そこで竹の皮に包んだ握り飯を売りだしたのが、私共が駅弁を始めさせていただくきっかけとなりました。
明治二十四年、今から1世紀以上前の話です。
との、ことです。
弁当箱は、レギュラーは桃太郎から桃色ですが、プレミアムは掛け紙の「祭ずし」の金色と同様に、金色となっていました。
具も、ゴージャスに? なっているようですな。
ママカリが小さくなって、えびがどーんと2尾。
で、駅弁なので平らになってますが、参考までに盛りとなっているばら寿司も食べてみた。
吉備の國のばら寿司。
まあ、比べてもしようがないけどね。
生ものが入っていないってのがね。。。
あー、もしかしてれ、一菜にするために、混ぜてから食べなきゃならなかったのか?
それはないか。。。
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