国見山廃寺、へ~、そうなんだぁ
2010.01.11 |Category …北上で、…
ジョイスタでクイズ大会やっていた。
司会はふじポン。
でも、観客がすくねぇなぁ~。
子どもたちが、これからがんばろうってぇのに、さ。
パルに行ったのは、遺跡展示を見るため。
昨日の講演会も行きたかったが、腰痛で、椅子に座り続ける自信がなかったので、断念。
ぐるっと見て、係員の人に説明していただき、スタンプを押して帰宅。
発掘された鬼瓦が使われていた予想図をスタンプにしたものだ。
藤沢から出た蕨手刀には、ちょっと興奮しました。
奈良時代のお墓から出たのだそうです。
その脇に五重塔の模型がありました。(あれ?三重だっけ?)
礎石から三重塔か五重塔が建っていたはずた、とのことから、五重塔を建てようと言っている建築家の方もいらっしゃのだそうです。
いやいや、是非、建ててほしいですね。
説明を受けて、おっ、と思ったことがあります。
住居跡から出るべきものが出ないのだそうです。
建物が焼けたのなら炭が、朽ちたり破壊されたのなら釘などが、出て当然なのだ”が、それが出ない。
だとしたら、解体されて、どこかに持って行かれたのではないか、って考えますよね。
時期的には平泉の勃興と重なるのでしょうか。
もしかしたら、平泉に持って行って使った?
藤原氏にとって、自分の勢力圏に、定額寺を中心とする一大仏教文化があったのでは、具合が悪かったのでしょうか(素人考えですが)。
国見山廃寺が定額寺だったかどうかは、まだ証明されていません。
いませんが、定額寺かどうかより、これだけの寺院がまとまって存在ていたこと自体が、北上にとって、大きな財産ですよね。
もっと市民に宣伝しましょう。
平泉文化に先立つ文化が北上にあったこと、平泉の基礎になったかもしれないこと、藤原氏の祖先がここで学んだかもしれないこと、想像すると、すんごいことですよね。(素人想像ですが)
当時の仏教は、宗教であり、最先端の学問であり、文化であり、様々な技術をもたらしたでしょう。
和賀氏滅亡とともに廃れたこの地域ですが、今工業が盛んになってきたのは、長い歴史で見れば、再興の時期なのかもしれません。
更なる発展には、文化と学問が必要でしょう。
そのためには、国見山廃寺がキーになるかもしれません。
なんちって。
それにしても、「くにみさん」と読むとは・・・。
ずっと「くにみやまはいじ」と読んでました。
(でもって、書き始めは10日ですが、書き終わったら11日になってました。
パルでの展示は本日11日まで。
是非!)